酔っぱらいの聖者たち ~預言者、郷里に容れられず~
いかがお過ごしですか?
気温もぐっと下がってきましたので、身体の方はその対応に大変なのでしょう。
このような時期というのは、新たな気候に適応する身体への再調整のために心身ともに緩んできますので、集中しようとしてもしきれなかったりするものです。
私も言葉はたくさん降りてきて、記事は書いてはおりますが、最後までまとめ上げることができません。
そのような時に、無理してまとめ上げようとしても、ロクでもない記事になることはわかっておりますので、無理にまとめるようなことはせず、そのままほったらかしにしております。
いずれにせよ、それなりにまとめ上げたところで、読者の方の精神も緩んでおりますので、肝心なところが伝わらなくなってしまいます。
ですから、このような時は、緩い記事を書いて、緩い気持ちで読んでもらうことが最善なのだと思うわけであります。
眉間にしわを寄せて読むのではなく、酔っぱらいのようなアホ面全開の眠そうな顔(笑)で眺めるだけのような具合に読んでいただければ良いのです。
あなたが今、ご自宅でお一人でお読みになられているのであればね。
その方が緩みますから、身体の適応のための再調整の働きが阻害されにくいというわけであります。
そのような訳でありまして、ここ最近のセッション時以外の私はアホ面全開で毎日を過ごしております。
とはいっても意図的にアホ面全開にしているわけではありません。
心身が緩もうとしている働きに逆らわずにいるわけですから、何をしていても自然と深いサマーディの状態になっているわけです。
その心地良さに、ただ委ねているだけなのであります。
するとその心地良さはさらに深まってきますので、お恥ずかしいことにさらに私はアホ面になってしまうというわけであります。
もし私の家に、自己存在というものに関心のない嫁でもいれば、そのような私だけを見れば完全なダメ人間として映ることでしょう。
深い目覚めの意識状態にあった当時のラマナ・マハルシにしても、兄からはかなり手厳しくダメ人間として叱られたみたいですからね。
いくら目覚めた、悟ったとはいえ、当時の彼は16歳の少年です。
彼の意識内において生じていたことが、いわゆる真我(真なる自己)の目覚めに由来するものであるということの明晰な理解もほとんどなかったでしょうから、言葉で説明することなどできなかったことでしょう。
たとえ説明できたとしても、信じてはもらえなかったことでしょう。
そのような意味でも、たくさんの切ない想いをしてきたのでしょう。
そりゃ、この世界の常識に縛られない山にでも逃げるしかなかったことでしょう。
事実、真なる自己の目覚めの過程において、英国軍の将校として仕官していたプンジャジなんかは、上官からはいつも酔っぱらっている人間だと思われていたようです。
[『覚醒の炎』デーヴィッド・ゴッドマン著/P125・5行目~]
たしかにプンジャジが酔っていたことには違いないのですが、アルコールにではありません。
聖者、賢者、覚者、仏陀(ぶっだ)など、呼び名などどうでもいいのですが、
聖書には、
預言者、郷里に容(い)れられず
という言葉があります。
真なる自己の目覚めによって神の言葉を世に伝える伝道者となった者、すなわち預言者といえども、幼き頃からその人を見てきた故郷の人たちにとっては、依然としてその人は従来のその人としか思えず、それほど高く評価されないということに由来する言葉のようです。
聖書の中にはキリストが発したとされる言葉として、以下のようなものがあるとされています。
預言者が敬(うやま)われないのは、その故郷、家族の間だけである。
マタイによる福音書・13章57節
はっきり言っておく。
預言者は、自分の故郷では歓迎されないものである。
ルカによる福音書・4章24節
このことは、預言者の卵である真なる自己として目覚めつつあるアホ面全開の酔っぱらいのように眠たそうな顔をしたあなた(笑)においても同様です。
真なる自己の目覚めの過程において、英国軍の将校として仕官していたプンジャジなんかは、上官からはいつも酔っぱらっている人間だと思われていたようです。
上官からは「彼には一日に二杯以上は与えてはならない」とまで指示がくだされていたようです(笑)
[参照:『覚醒の炎』デーヴィッド・ゴッドマン著/P125・5行目~]
先に述べてように、兄とのやりとりにおいても切ない想いをしてきたラマナ・マハルシが、兄からそれなりに理解してもらえるようになったのはおそらく、ラマナがポール・ブラントンというイギリス人ジャーナリストによって西洋において紹介され、西洋から人々がラマナのもとに集まってくるようになった状況を知ってから後のことでしょう。
16歳の時から、何年かかったということか。
その間に一緒に暮らしていたら、ラマナにとってはこの世は地獄だったことでしょう。
いくら真なる自己の目覚めによって、本質的にはあの世にいるとは言え。
もちろん、そのようなラマナの兄の無知は責められるものではありません。
それがこの世での当たり前ということなのですから。
真なる自己の目覚めとなると、一般の人たちの有する通常の意識状態による理解の許容範囲というものを完全に超えていますからね・・・
知的には理解できたとしても、ましてや自分の目の前に目覚めつつある人間がいるなどとは思いもしないわけですから。
ですが、
肉体/精神の次元においては、たとえアホ面全開の酔っぱらいのように眠たそうな顔をした人間であったとしても、真なる自己としての「私」として存在している人というものはいるものである。
(厳密には、その人ではなく、その人の内部に宿る自己意識ですが。)
真なる自己の目覚めに伴う変容を遂げつつあるあなたにとっては、大なり小なり先に述べたような妨害や攻撃を受けることが、これからも増えていくことでしょう。
自己の変容に伴う周りとの関わりにおける変化ということです。
周りの全ての人たちが、真なる自己として目覚めつつあるあなたを何としてでも引きずり降ろそうとします。
もちろん当人たちは善意のつもりで・・・
しかし善意とはいっても、無知に由来する善意であるというのがなんとも皮肉で悲しいことですが、何もそれは彼らのせいではありません・・・
これなどは当人たちの理解の許容範囲の問題です。
ですから、あなたの師があなたの目覚めに由来する変化を見抜けないようでしたら、あなたはすぐにその師のもとを去る方が賢明でしょう。
その師が真なる自己として目覚めているのなら、自身も同じ経験をしてきているわけですから、すぐにそのことに気がつくはずなのです。
かりに鈍い師でも、本当の師であるならば、そのことを話せば理解してもらえるはずなのです。
さらには、これまで通りの日常を維持し続けていきたい人たちによるお為(ため)ごかし。
本当は自分のためでありながらも、「お前のためだ!」という善意を装った卑しいエゴイズム。
家族や親せき、友達、つまりあなた想いの人間のつもりでいる人たちの常套手段。
完全に無意識的か、ある程度は自覚しているのか、その人の理解の許容範囲によってその程度は様々でありますが・・・
そのような役割になる人もいます。
もちろん悪意を持って、そのような状況を利用する人もいます。
私は、師のこと以外のほとんど全てを体験しています。
私のように若い頃から人間としてもとても強かった人間ですら、そのような時期においては、通常ではあり得ないほどの露骨な攻撃というものも受けてきたわけであります。
情けないことではありますが、人間にはそのような卑劣さや残忍さというものがあるのも事実です。
もちろん当の本人は、その自覚がないどころか、自身にとっての正義というものに置き換えておりますので、そのようなことが平気で堂々とできるのでありますが・・・
そのような攻撃は、あなたが目覚めてからも変わりません。
あなたがその目覚めを宣言しようものなら、さらに大変です。
勘違いの目覚めにおいてなら笑われて終わりですが、真の目覚めにおいては、そうはいきません。
真に目覚めた人の存在や言動は、影響力がとても大きいですからね。
ですからキリストを始め、目覚めを宣言した人たちは処刑されてきたりしているわけです。
それが地球上に蔓延(まんえん)している目覚めを妨げる諸力というものです。
ですがご安心ください。
解釈にもよりますが、悪霊の仕業とか、そのような幼稚なものはありません。
つまり地球が有するエネルギー的な重力とでもいうものが、想念を媒介にして人を操り、あなたをエネルギー的に上昇できないようを途絶えさせようとするのです。
このような目覚めを妨げる諸力の働きにも、もちろん意味がありますが、ここでは割愛します。
そのような目覚めを妨げる諸力は、想念を使ってあなたの内部からも攻撃をしかけてきます。
あなたは内的にも外的にも、そのような目覚めを妨げる諸力の代表である想念によって包囲されているわけです。
しかし同時に、真なる自己の目覚めが生じているあなたにおいての核となる部分、つまり自己意識そのもの、あなたそのものは、純粋意識によって包囲されていることも忘れてはいけません。
後は、あなたがそのどちらの側につくかによって、勝敗が決まってしまうというだけのことです。
あなたの周りの人たちは馴れ合いから、あなたにはいつまでもこれまでのあなたであって欲しいのです。
彼らの側からすれば、堕ちたあなたを引き上げようとしているつもりですが、実際は聖なる次元へと上昇しつつあるあなたを引きずり降ろそうとしていることになっているなどとは、夢にも思っていないでしょう。
それがこの世の中での、普通のことなのです。
ある観点からすれば、内的には真なる自己の目覚めが生じているあなたを意識としての「私」は24時間サポートしておりますが、肉体/精神としての私は外的には24時間つきっきりでサポートするわけにはいきません(笑)
ですから、あなたが肉体/精神の次元であるこの砂漠から立ち去るためには、それらの誤解や攻撃をもろともせずに果敢に1人で進んでいかなければならない時もあることでしょう。
その程度のことで躓(つまづ)いていては、いけないのです。
そして本当の助ける力を身につけてから、砂漠に戻ってきて、愛すべき人たちのお役に立てばいいのです。
自己意識の基盤である純粋意識に酔うことと、自己意識にとっての対象物である想念に酔わされていることとでは意識状態が天と地ほど異なります。
真なる自己に目覚めた人は、自己意識の喪失に由来する自己忘却の意識状態ではなく、自己意識と純粋意識との融合による完全なる自己認識の意識状態にあるのです。
自己意識としてのあなたの住んでいる世界の次元が違うということです。
どちらが良いとかということではなく、これらは異なる効用を持ったお酒なのです。
あなたは、どちらに酔っているのですか?
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